[連載小説]戦う法務課長 第34話「新人教育編(16)」

2014年1月03日|北島敬之 ユニリーバ・ジャパン・ホールディングス株式会社/代表取締役
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もう一つの早朝

 

乾は、大きくのびをして目覚ましを止めた。5時。夏場にくらべてまだ外は暗い。軽くストレッチをする。ウェアに着替えて、自転車で自宅周辺を30分ほど走る。実は、乾は最近自転車、それも長距離を走れるようなロードバイクに凝っている。いずれは、ハワイのホノルルセンチュリーライドに出場したいと思い、結構な金額はしたが夏場にロードバイクを購入した。10分も走ると頭がスッキリとした気分になる。

シャワーをあびて、メールチェックをする。乾は、会社のアドレスに入ってくるメールをすべて携帯電話のメールアドレスに自動転送するよう設定している。添付ファイルや長文のメールは無理だが、どんなメールが夜中に送られてきたかは分かる。ミシマには、世界中で80箇所の海外事業所がある。海外事業所からの乾宛に送られてくるメールもかなりの数だ。携帯電話だと、やや込んでいる電車のなかでも十分にメール内容がチェックできる。乾は、朝食はいつも会社の近所のコーヒーショップでとることにしているので、身支度を整える。

会社の最寄駅に到着したのが7時半。まだ、人の数もまばらだ。コーヒーとチキンサンドを頼む。片手で携帯電話に転送されたメールをチェックする。そのなかで、今日どうしても返信・処理しなければならないメールだけを残して、削除。

こうして、乾の一日が始まる。

 

さらにもう一つの早朝

 

堺は、やや二日酔い気味の頭を振りながら、ようやく起きた。昨晩は、同期の集まりだったが、ついつい深酒をしてしまった。途中から、同期の上司も「乱入」し、店が混沌とした状態になったことまでは覚えている。その後、どこをどうやって帰ったか記憶がない。

ベッドには、持ち帰った契約書のファイルが開かれたままだ。どうやら、家に戻ってから契約書のレビューをしようとしたらしい。シャワーをあびる。昨日やり残したことを1つ1つ思い浮かべる。身支度を整え、家を出る。車中で手帳を開き、今日やるべきことを書き出す。昨日、書き出したもので処理済みの事項は赤のボールペンで消しこむ。最近、消しこむ量が格段に減っている。やり残した仕事がどんどん増殖する。そんなとき、堺は未処理のやり残し事項であっても、いったん消しこんで、あらたに書き留めることにしている。こうすれば、なんとなく処理が進んでいるような気がするし、何よりも書き直すことで、処理事項の内容をもう一度見直すことができる。あらたな角度から見ることができたり、別の処理事項と組み合わせて、新しいアイディアが生まれたりする。

堺は、完全にパソコン上で仕事をする世代だ。契約書のドラフトも会社の共有フォルダに保存されているモデルフォームやサンプルを修正して作成している。時々、この条項はいったいどんな意味を持つのか分からないまま、作成しているときもある。そうしてできたドラフトは、必ず営業部から厳しい問合せがある。何度か、堺は営業部の課長連中から、厳しい叱責を受けたことがある。これが、俺達の取引と何の関係があるんだ、と。

そんな失敗を何度か繰り返した後、堺は、あえて手で書く作業を増やすようにした。非効率に見えるかもしれないが、手で書くことによって、より内容が理解できるような気がしている。

「契約書には、無駄なことは何ひとつ書かれていない。1つ1つの条項には意味がある。問題は、その意味が、今契約書を当てはめようとしている取引にうまく適合するかどうかだ」

隼がよく言っていた。だからこそ、意味の分からないものをそのまま当てはめるのではなく、その必要性を考えろ、というものだった。

「無意味な、あるいは意味不可解な条項を設けることは、後々のトラブルにつながる」と隼が酒を飲みながら語るのを堺はいつも印象深く聞いていた。まぁ、いいや、という安易な気持ちが後で大変な事態を招くことがある。どこまで、つきつめて考えられるか、また、その考えるスピードを速めることができるのか。

堺は、まだ答えを見出せないでいる。だが、「書くこと」は続けよう。

 

逡 巡

 

ミシマの財務部資金課の課長である峰は、どうしたものかと戸惑っていた。昨日、いきなりかかってきたクラインゲルドの日本支店からの電話だ。どこで情報が漏れたのか、ミシマが優良・不良を含めて資産圧縮のために相当数の債権を売却していることに触れ、クラインゲルドで一括して購入したい、という申し入れだった。

カール・ヒュッテルと名乗るドイツ人は、最初はたどたどしい日本語であったが、本題に入るとほとんどネイティブと変わらない日本語を操り、ぜひとも一度面談させてほしい、と依頼してきた。どうやら、ミシマのほかの部署の人間も知っているようだった。

確かに、売却先を一社に絞れば、作業は格段に楽になる。売却対象債権の評価も1つの基準で査定されることになるから、複数のところに売却するよりは、短期間で処理できるだろう。一方、足元を見られて、安く買い叩かれる恐れもある。

スピードか、価格か。今のミシマにとっては両方大事だが、今回の資産売却プロジェクトの実質的なリーダーである峰としては判断に迷うところだ。

上司の財務部長や財務担当役員に報告するにはまだ早い、と峰は思っていた。もう少し状況を明らかにした上で、自分の判断もふまえて報告する必要がある。商社マンは、情報が命。しかも、その情報は中身が濃いものでなければいけない。峰は、入社当時の指導員であった先輩社員の言葉を反芻しながら、法務部の隼に電話をかけた。

 

比 較

 

1時間後。財務部の会議室に峰、隼、乾の3人がいた。峰は、極秘の会議ということで隼を呼んだところ、隼は乾を連れてきた。どうやら資産売却の仕事は、法務では乾が実質的に取り仕切るようだ。

「クラインゲルド、というインベストメントバンク(投資銀行)を知っていますか?」

峰の問いかけに隼は頷いた。

「ドイツ系のインベストメントバンクは、どこも積極的に不良資産を買い漁っているようだけど、クラインゲルドは発展途上国向けの融資債権をかなり積極的にやっているところだよね」

「そうなんです。その日本支店から連絡がありました。ミシマが売却を予定している債権を一括で買い取りたい、というオファーがきてまして」

「オファーといったって、向こうはこちらがどういう債権を売却したいのか知らないんだろう?」

隼の問いはもっともなものだ。しかし、どうやらクラインゲルドはそのあたりの大まかな情報をつかんだ上で連絡してきているらしい、と峰は説明した。クラインゲルドのカール・ヒュッテルは具体的な売却債権をあたりさわりない間接的な表現で述べていた。融資先の名前こそ言わなかったが、数字、国、債権の内容は、峰が把握している情報とほぼ一致していた。

「それで、クラインゲルドはいくらで買う、と言ってきたんですか?」

乾のストレートな質問に、峰は丁寧に答えた。

「まだ金額は決まっていません。こちらも額面総額でいくらの債権売却をクラインゲルドに行うか決定していないので」

「まずは、こちらから情報を提供しないといけないだろうな。峰さん、今回の売却はあまりじっくり構えてやる時間の余裕がないのでは?」

「そうなんです。それで、迷っているんです。あまり簡単に飛びつくと、買い叩かれそうな気がして、ちょっと二の足を踏んでいるんですよ」

財務の使命は、1円でも高く、そして1日でも早く現金を手にすることだ。乾は、峰のおかれている立場がよく理解できた。

「よし、まずはConfidentiality Agreement(秘密保持契約)を結んで、情報開示をしようじゃないか。

とにかく、先へ話を進めないと、何も進展は見えてこないからね」

「この段階から、法律事務所を起用する必要はありますか?」

峰の質問に隼がどう答えるか乾は見ていた。どのタイミングで法律事務所に相談するのか、は乾がいつも悩む点だった。早いうちに越したことはない。一方で、経費としての弁護士費用はなるべく抑えたい。ミシマの場合、弁護士費用は依頼した案件にかかわる営業部署が負担するシステムとなっている。営業部署としては、当然、弁護士費用で圧迫されたくないという強い希望を持っている。毎回、ディスカウント交渉をやらされている乾としては、あの疲弊感をできるならば味わいたくない、と常に思っている。

「この段階ではまだいいでしょう。法務にいくつか契約のサンプルがあるから、それを手直して出すようにしましょう」

隼は、一両日中にドラフトを出すことを約束し、会議は終了した。

 

秘密保持契約

 

カールは、今のところ自分のシナリオどおりに動いていることに満足していた。

ミシマの財務に電話をする前に、つてをたどって得たミシマ法務の責任者のメールアドレスに事前にクラインゲルドとはどういうところかを説明するメールを送っていたのだった。

カールも以前はドイツの法律事務所に勤務する弁護士だったので、東京にある外国法事務弁護士事務所に所属する外国人弁護士のネットワークはよく知っていた。やや驚いたのは、ミシマの法務責任者の「ハヤブサ」という名前は、外国人弁護士の間では結構有名だということだった。実際に仕事をしたことのある弁護士はそれほど多くはないが、飲み食いで一緒に盛り上がった、という弁護士が数多くいた。念のため、英国や米国の法律事務所に勤務している友人にも聞いてみると、今でも彼らとはコンタクトがあるという。どうやら、「人脈」という点では幅広いものを持っているようだった。だからこそ、この申し入れをはなから拒絶することはなく、まずは接触を試みるよう財務にアドバイスするだろう、とカールは読んでいた。実際、財務のマネージャーである「ミネ」は、電話をした2日後には、情報開示の上詳細を詰めたい、ということで秘密保持契約書のドラフトを送ってきた。

秘密保持契約書は、相互に交換する情報を「秘密情報(Confidential Information)として定義し、次のような条件が設定されていた。

 

【ミシマのConfidentiality Agreementの条件骨子】

 

1.秘密情報の取扱い

1)ミシマの事前承諾なしに、第三者に開示しない。ただし、弁護士、会計士等専門家は除く。

2)社内で情報を受領し、利用できる権限のある受領権限者(Authorized Recipient)を指名し、その氏名をリストにして契約締結時に提出する。

3Authorized Recipientに対しては、本契約に規定されているのと同様の義務を課す内容の誓約書を提出させ、本契約締結時に提出する。

4)クラインゲルドは、秘密情報を安全に管理する体制、措置を実行する。クラインゲルドは、少なくとも自己の保有する情報と同等の注意をもって保管する必要がある。

 

2.秘密情報の例外

秘密情報の場合であっても、以下の情報は本契約の義務の対象とはならない。

1)すでに公知となっている情報

2)本契約締結前にクラインゲルドが保有している情報

3)本契約締結後にクラインゲルドが第三者から、秘密保持義務の負担なしに、合法的に入手した情報

 

3.秘密情報の利用目的

1)秘密情報は、ミシマが保有する売掛債権、融資債権の買取りに関する検討の目的のみに利用する。

2)目的外の利用を行った場合は、契約は直ちに終了し、クラインゲルドは受領した情報をすべて返還しなければならない。

 

4.その他

1)秘密情報の開示は、クラインゲルドに何らのライセンスや許諾を与えるものではない。

2)ミシマは開示される情報の正確性を保証しない。

3)クラインゲルドの検討期間は、2週間。

42週間後に、債権売却に向けて契約するかどうかを両者で協議し、決定する。協議が整わない場合、両者は何らの負担を負うことなく(秘密保持義務は除く)、本契約を終了することができる。

 

まずは、想定された内容だった。カールは、峰に対する返信メールを作成した。もちろん、誤りのないよう英語だ。

 

【カールの返信内容】

 

秘密保持契約のドラフト送付感謝。内容については、ほぼOKだが、いくつかの条件を追加したい。

 

1.秘密保持契約期間内は、ミシマは他の金融機関(証券会社、インベストメントバンクを含む)と債権売却についての交渉を行わない。

2.秘密情報に関して、法律や裁判所の命令により、開示せざるを得ない場合は、秘密保持義務の対象から外れる。

3Authorized Recipientには、クラインゲルドの本店および関係会社を含む。

 

2時間後、前記追加条件をすべて入れ込んだ新たな秘密保持契約のドラフトが送付されてきた。なるほど、素早い。ミシマの法務はなかなか物分かりがよくて「優秀」だ。

カールはほくそえんだ。

 

一 歩

 

峰と乾は、クラインゲルドから送られてきた条件を検討し、隼にも相談した結果、すべての追加条件を受け入れることにした。

「今は、スピードを重視するときだ、入り口のところで、時間をかけている余裕はないだろう。まずは、情報を出して、どれだけの『値』がつくか、そこから始めることだ」

隼は、クラインゲルドの追加条件については、当然という反応を示した。峰としては法務部として、もう少しコメントらしいコメントを期待していたようだった。

乾は峰に聞いた。

「いったい、どの程度の金額の債権が売却対象となっているのですか?」

峰は、極秘ですよ、と念を押しながら3枚のリストを乾に見せた。リストには、借入先、融資実行日、返済条件、金利、取得している担保、資金の調達先がびっしりと書き込まれていた。

「商社の場合、手元資金のみで融資をすることはありません。資金を調達し、融資や投資を行ってリターンを得た後、調達先に返す。そのときの利ざやが、われわれの収益となります」

峰は乾に説明した。

「当然、調達にあたっては長期で固定した資金を調達している場合もあるし、短期での調達を繰り返しているものもある」

「ということは、長期の資金を返済すると、ひょっとしてコストがかかるっていうことですか?」

「そのとおり。長期の場合、prepayment costが融資契約上規定されているのがほとんどです。負債を減らす意味でも、借入れをなるべく減らしたいが、コストもかかる。だから、どれだけ高く売れるかが、収支計算上は一番大切です。当たり前のことですが」

乾は、あらためて、ビジネスには元手が必要であることを実感した。

 

接 触

 

隼は六本木にある英国法律事務所ハーバート&モーリスにいた。ここに旧知の弁護士がいる。日本人だが、英国、ニューヨーク、日本の弁護士資格を持つ田栄助だ。隼がロンドンに出張したとき、偶然、日本料理屋で知り合った。そのとき、田はまだ英国法律事務所のトレイニー・アソシエイトだった。その後、経験を重ね、現在ではハーバート&モーリス東京事務所の日本人パートナーとなっている。

隼より3つ若い田であるが、見た目は、隼よりも老けている。徹底したアウトドア志向で、週末は必ずどこかの山か海にいる。料理も玄人はだしと聞いている。どう見ても、隼との共通点はなさそうだが、二人とも酒が好きだ、という点が唯一の共通点で、田が帰国してからは、一時期、毎晩のように飲み歩いていた。最近は、田も仕事が忙しく、隼と飲む機会もめったになかった。

「やぁ、隼さん。珍しいじゃないですか。こんな早い時間に。さすがに、これから呑みに行くのは、憚られますねぇ」

田は巨体を揺らしながら会議室に入ってきた。あとから、アソシエイトらしき若い女性弁護士がついてきた。

「ま、あと1時間もすれば、丁度よい時間になるでしょう」

隼は、完全にその気である。が、まずは仕事の話だ。

「ミシマの状況が悪いことはご存知ですね」

田が頷く。ミシマの最近の新聞報道はどれも否定的なものばかりだ。気になるのは、日本のマスコミではなく、ミシマが資金調達を行っているロンドンやベルギーの金融市場での噂だ。

「『資産圧縮』とは聞こえはいいが、要は借入れを減らすためにキャッシュがほしい、という状況でね。すでに経営会議レベルで、大量の債権を売却することが内定しています。一方、電話で申し上げたとおり、クラインゲルドという投資銀行が接触しきている。いずれ、そこと集中的に話を詰めなければいけないのだが、どうしても社内のリソースだけでは苦しい」

「そこで、優秀な日本人パートナーのいる事務所に相談にきた、というわけですな」

この田の飄々とした物言いが、隼は気に入っていた。

「そう。久しぶりに、その優秀なところ見せてもらおうと思いましてね。今、秘密保持契約を交わし、情報をクラインゲルドに提供する段取りまできている」

「隼さん。その秘密保持契約は?」

「ご心配なく。優秀な弁護士には、もっと華々しい出番を用意してありますよ」

田と隼は、その後1時間に渡り、今後でてくるであろう作業について大まかに話をした。(続)

 

(次回は110日更新予定です)

 


【バックナンバー】

33話「新人教育編(15

32話「新人教育編

31話「新人教育編

30話「新人教育編

29話「新人教育編

28話「新人教育編

27話「新人教育編

26話「新人教育編

25話「新人教育編

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20話「新人教育編

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18話「債権回収編

17話「債権回収編

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14話「債権回収編

13話「債権回収編

12話「債権回収編

11話「債権回収編

10話「債権回収編

9話「企業買収編 交渉の帰結」

8話「企業買収編 再会」

7話「企業買収編 乾美和登場」

6話「契約交渉

5話「契約交渉

4話「契約交渉

3話「契約交渉

2話「契約内容の検討」

1話「契約作成の依頼」

北島敬之 ユニリーバ・ジャパン・ホールディングス株式会社/代表取締役

きたじま・たかゆき
ユニリーバ・ジャパン・ホールディングス株式会社/代表取締役
87年早稲田大学法学部卒業、日商岩井株式会社(現・双日株式会社)入社。ロンドン駐在、同社法務部部長補佐を務めた後、ジョンソン・エンド・ジョンソン株式会社法務部ディレクターを経て、06年ユニリーバ・ジャパン株式会社入社。12年4月より現職。國學院大學非常勤講師(国際取引法)。

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